筑波の詩     篠崎 隆(文・写真
                          



ロープに身を託して、ウチョウランの苗を岩壁に南植していく。かれんな花が開くのは六月 


、【ウチョウラン復活】

増やした球根を岸壁に再植

 奇岩巨石の続く登山路を数人のグループがあえぎながら登ってきた。ウグイスが鳴き、ブナの新緑が日ごとに濃さを増している山頂付近。肩にはハシゴをかつぎ、ロープを手にし、中の一人が四角い鉢を大事そうに抱えている。岩壁にたどりつくと一服。しかし、目は岩壁の適当な場所を探し続けている。
 鉢を囲んで打ち合わせが始まった。中にあるのは薄い緑の苗数十本。一人の山男が岩壁をよじ登って一本のロープを垂らすと、また数人がハシゴをかけ、ロープをしっかりと身体に結びつける。小さな苗が手から手へ。岩壁のやや湿った場所にていねいに植えられていく。
                     ◇
 小さな苗-山草の女王、ウチョウランである。
 梅雨時の六月から七月初めにかけて、一方に傾きかげんに咲く。花の多くは紅紫色。時に純白のものもあるが見かけることはまれだ。名の由来については胡蝶蘭(こちょうらん)の読み違いとか、羽を広がたチョウに似ているからとか、諸説聞かれる。
 筑波山はかつてウチョウランの宝庫だった。岩壁から顔をのぞかせたかれんな花は、山路を行く人びとの目を楽しませてくれたものだ。ところが数年前、山野草ブームが起きて以来、心ない人たちが盗みとっていくようになり、いまでは絶滅寸前にまで追い込まれて しまった。
                     
                     ◇

 「何とか昔のウチョウランを再現しよう」。心を痛めた地元筑波町と筑波山ケーブルカーの間で話し合いが姶まった。ラン作り二十余年というベテラン、茨城町奥谷、ラン研究家望月明さん(四三)が、この復活構想に感激、協力を申し入れてきた。長年の研究で増やしてきた筑波のランの球根を提供、試験的ながら三者一体となってこの春から「再植作戦」に踏み切った。
 望月さんの指導で、三年生の四-五㌢程芽が出た株を、一つひとつ岩壁の適地に植えつけていく。今回再植したのは山内数カ所、数十株。この作戦を聞いた町民の中には早くも「ウチョウランを守る会」結成の話もあるという。
筑波町や筑波山ケーブルカーも「緑の運動」を続けたいと意欲的だ。二年後の科学万博。他県や外国からのお客様にウチョウランは果たしてその姿を見せてくれるだろうか―。






 


装束こそ昔ながらだが、現代の巡礼はバスを使って駆け足で札所を巡る=筑波山大御堂 


4、【現代の巡礼

観光ツアーで人生の息抜き

 菜の花やレンゲが咲く春の筑波路を、一笠一杖(いちりゅういちじょう)に身をゆだ
ねた巡礼の一行が通る―。
 そんな淡い旅情をかきたてる光景をカメラに収めようと、筑波山大御堂(おおみどう)を訪ねた。昼下がりの域内は静かだった。本堂の縁側に腰をすえて待つことしばし。一台の観光バスが警笛を鴫らしながら急坂をのぼってきた。あわただしく境内に降りて来たお遍路さん姿の一行は、まず堂前で記念撮影。納経もそこそこにガイド嬢にせかされて再び車中の人となって次の札所へ。現代の巡礼は「時は金なり」を実践する観光ツアーが主流のようだ。
                     ◇
 坂東三十三観音霊場の第二十五番札所。寺伝によれば、延暦元年(七八二)徳一上人が開基、大同年間に弘法大師が堂宇を建立し知足院中禅寺と号した。江戸時代は幕府の保護を受け隆盛をきわめたが、維新の廃仏毀釈(はいぶでつきしゃく)で、多くの堂宇は破壊され廃寺となった。昭和五年、大御堂のみが再建された。
 駆け足で札所を回る観光巡礼だが、古来の信仰に支えられているとあって、お年寄りの姿が目立つ。「老人がいなければ家の中の風通しが良くなる」と岐阜から来たお年寄りが笑った。夜ともなれば、宿で背や足に薬をぬったり、ご詠歌のけいこに励む。カラオケに興じたり、ホテルのショーを見物する人も。巡礼ツアーは長い人生での息抜きとなっているのだ。
                      ◇
 夕暮れ。観光派とは一味違う若い夫婦の巡礼を見た。手甲、脚絆(きゃはん)、白装束にわらじはき。菅笠(すげがさ)をいただき、金剛杖(づえ)をついた昔ながらの姿で一心に祈りをささげる。堂前で礼拝。鈴の音に合わせて般若心経、ご詠歌を低く唱えると、頭を深く下げ合掌した。信仰心の薄まったといわれる現代。この夫婦がぶつかった苦悩、世のしがらみとは何だったのだろうか。
 本堂の灯明に本尊の千手観音像が映し出される。その表情は夫婦の心を安らげるような微笑が刻み込まれているかに見える。「リーン、リーン」。澄んだ鈴の音が暮れなずむ筑波の嶺(みね)に流れて行った。









 男体山をめぐる自然探勝路近く、カタクリがかれんな花をつけている

3、【堅香子の花】

ブナ原生林の中 ひっそりと

筑波山山頂付近のブナの原生林はまだ暗く深い冬の眠りにあった。その眠りを揺り起こすように鋭い鳴き声をあげて野鳥が飛び去った。
 ある時、静かな林の中に突如として一条の陽光が差し込んできた。春を待ちわびてはちきれんばかりにふくらんでいたカタクリのつぼみは、暖かな光を浴びて、はずかしげに花を開き始めた。ま ばたきの瞬間を縫うようにして…。
              ◇
 「もののふの八十(やそ)おとめらが挹(く)み乱う寺井の上の堅香子(かたかご)の花」
 明るい早春の情景を詠んだ歌が万葉集にのっている。乙女たちの笑い声、周辺を彩る「カタカゴ」と呼ばれたカタクリの花。春の喜びがあふれている。
 その昔、筑波には春と秋には「かがい」呼ばれる集いがあった。若い男女が各地から集まってきては、歌を詠み、酒を酌み交わしながら語られ、楽しく踊った。古代人のエネルギーが一気に噴き出る場だったという。若い男女に恋が芽生え、時には実り、時には寂しく散っていったのだろう。林の中でかれんに花開いたカヌクリは、そんな若者たちの喜び、悲しみをじっと見つめ続けていたのかもしれない。
 カタクリの花言葉―「初恋」「さびしさに耐える」である。
              ◇
 高さ十五㌢ほど。首をたれ紫紅色の六弁の花びらをそり返るようにつけた姿は、花言葉がいかにもふさわしい。林の中、至る所で咲き誇っている様は、はなやかさを漂わせている。しかし、一つひとつの花に視線を注ぐ時、カタクリは孤独で物思いにふけっているように見えてくる。
 かつて、カタクリ粉はカタクリの鱗茎(りんけい)を原料とした。今はジャガイモのでんぷんで代用される。往時、どこにでも見られ、食用としても十分あったはずのカタクリも、群生地となると数えるほどになってきた。男体山をぐるりと回る自然探勝路一帯もその一つ。花の生命ははかなくて約一週間というカタクリは、今その装いの最盛期を迎えている








 大池を囲んで、見事な桜の大木が並ぶ。
花の間から春がすみに浮かぶ筑波の姿が
=北条で


【大池の桜】2

貯水改良半世紀 いま見ごろ

 山と、花と、水とー。
 そのどれもが美しい。
 春がすみの中に浮かぶ筑波山。山麓(さんろく)に広がる澄みきった池と、今を盛りと咲き誇る桜並木。筑波町北条の大池は春らんまん、花の色に包まれていた。三つの池を取りまく約一㌔の土手を行くと、成木だけでも二百五十本という桜の樹々。四月上旬一斉にほころび始めた花は、今が最高の見ごろとなっている。
そのほとんどがソメイヨシノ。春の訪れを告げるサクラ前線は、この花の開花日をつないで作られる。「バラ科の落葉喬木(ぎょうぼく)。十数種の総称」(広辞苑)という桜の中でも、最も親しまれてきた。

昭和八年、全国的な大かんばつに見舞われた。筑波の農家も水不足で田植えもできない有り様だった。町や農民たちは連日対策を話し合い、幕末ごろからあったといわれる農業用水、大池の改良工事に着手。土手を高く積み上げ、池の底の泥を掘り下げて貯水量を増やした。
その完成を記念して、地元の青年会が以前から点在していた桜の大木の間に、新たに三年生の苗木を植林した、という。五・一五事件の翌年、二・二六事件を三年後に控えた暗い時代のことだった。
それから半世紀。当時役場職員として、工事と植林を見守ってきた関照一さん(七六)が感懐深げに話す。「あの時の桜がこんなに見事に育つとはねぇ。まるで夢のようです」。

「つねよりも春べになれば桜山 波の花こそまなくよすらめ」
紀貫之が岩瀬町磯部の「桜川」に思いをはぜて詠んだ、と伝えられる。国指定名勝でもある「桜川」は世阿弥の謡曲の舞台ともなっており、古くから筑波周辺にある桜を代表してきた。
昭和五十二年、大池のすぐ隣にある平沢地区から奈良朝時代初期の官衙(かんが)=
昔の役所=跡が発掘された。今、花の名所として知られるこの地だが、当時も桜があったかどうかは定かでない。大宮人が仕事の筆を休め、美しい筑波を仰ぐ時―その情景には、一陣の風、庭に舞う花吹雪こそが似つかわしい。




 
サカキで飾られた小さなみこしに乗って、神霊は霧雨に煙る山を巡る

 

帰社する時は横なぐりの雨

【御座替わり】
          
涼しい山頂で夏過ごす子神 

 朝七時、杉の大木に囲まれて静まり返っていた筑波山神社境内が急にざわめき出した。そろいの法被を着た約五十人の若者たちが、本殿から神霊を乗せたみこしを威勢よく担ぎ出す。氏子の当番町内に置かれた御仮屋に到着すると、神霊はサカキで飾られた小さなみこしに移され、冷水で身を清めた十人前後の若者の肩にかつがれ、山頂を目指す。
 早春、山にはまだ雪が残っているが、木々の新芽はほころぶ寸前。動物も長い冬の眠りからさめ、筑波山を「五穀豊穣」の神として信仰する山ろくの農家は、田畑の耕作にとりかかるころ-。
              
 筑波の一年は、四月一目の「御座替わり」神事に始まる。厳冬の間、寒風吹く山頂の神殿にいた親神の男女二神が里に下り、代わりに暖かい山ろくの本殿に住んでいた子の神が山頂に登って夏の間を涼しく過ごす。子とも思いの親心を示すと伝えられるほほえましい祭りだ。
 春と秋(十一月一日)に行われる「御座替わり」には、昭和四十年ごろまで筑波山神社最大の神事として、近郷近在から参拝人が多くつめかけだが、次第にその数も減り、いまでは祭礼のあることさえ知らない人も出てきた。しかし、それが逆に、全国各地の行事、祭礼が観光ショー化してゆく中で、「御座替わり」を原型そのままに伝承させてきたともいえる。だが、かつてのにぎわいを知る門前町の人たちは「派手な祭りは好まぬが、以前のにぎわいを取り戻したい」と口をそろえた。
              
 神職や氏子代表が供をしたみこしは登山路へ。ケーブルカーに沿った筑波山中最も険しい道だ。山頂付近に源を発する男女の川(みなのがわ)を渡り、胸突き八丁の急坂を登る。あいにくの雨模様。例年なら一行を珍しそうに見守るハイカーやケーブルカーの観光客の姿もない。
 ようやく山頂。男体山の神殿で親子の神霊を交代させ、しばしの休息をとる。三六〇度に展開する関東平野の大パノラマも雨に閉ざされている。昼食もそこそこに再びみこしをかついで帰社へ。高天ケ原、北斗岩、弁慶七戻りを経て御仮屋に着いた。帰社する時は横なぐりの雨。「こんな御座替わりは初めて」。ずぶぬれのかつぎ手が悲鳴をあげた。
              
 筑波山は県民の心のふるさとである。万葉の昔から伝わる風俗、文化。四季を通して織りなす美しい自然。われわれをはぐくんできた筑波山と、その周辺の姿を一年間にわたって描いてみたい。

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