茨城寺社巡礼    043

照光寺(石岡市府中) 制作:(一財)茨城県郷土文化振興財団


再建された本堂を見下ろすようにイチョウの大木がある


平成の山門が参拝者を温かく迎えてくれる



 
常州五大寺に数えられる名刹
鹿の子に創建
 雷電山西迎院照光寺は浄土宗の寺で、常陸大掾平高だいじょうたか幹浄永ともじょうえいが開基、下野国円通寺開山の良栄上人の弟子良善上人(一四二三年没)が開山にあたりました。
 創建は応安七(一三七四)年七月七日で、鹿の子にあり、次いで、府中城主大掾右京大夫の寄進により、堂塔伽藍どうとうがらんを増築し、常州五大寺の一つに数えられていました。山号の雷電山の由来は大掾氏が別雷皇太神を寄進したことによります。
 十二世の良夢上人の時、天正の乱で、大掾氏が佐竹義宣により滅ぼされ、寺の堂塔伽藍すべてを焼失しました。十三世の称往上人の時、大掾氏に代わって佐竹左衛門尉義尚が府中城主になり、鹿の子から現在地に移り、再興されました。これは文禄四(一五九五)年のことです。この敷地は府中の名家香丸氏の屋敷跡といわれています。

念仏常行の道場
 慶長年間(一五九六―一六一五)には徳川家より黒印十石を受け、元禄十三(一七〇〇)年に松平氏が城主になってから、その菩提寺として隆盛を極きわめました。松平家は水戸藩主徳川頼房の五男頼隆が初代です。
 宝永元(一七〇四)年、二十三世の良故上人の時、江州の田中九郎左衛門が梵鐘を寄進、鐘楼も建立されました。しかし、安永二(一七七三)年、二十八世の良高上人の時、火災のため、堂塔伽藍を焼失しました。
 安政四(一八五七)年には三十四世の良経上人が本堂を再建、三十五世の良悦上人が中雀門、鐘楼を再建しています。なお、本寺には常念仏堂がありました。これは笠間の仏山から移されたと伝えられ、善男善女の念仏常行の道場として称往上人の代から良鸞上人の代までの十三年間、盛んだったといいます。近郷より米一合、金一銭を集めて万まん霊回向りょうえこうをしました。
 本尊は阿弥陀如来像で脇侍は観音菩薩像と勢至菩薩像で、阿弥陀三尊といいます。寺宝としては二十五菩薩来迎像、十三仏来迎図、大涅槃図だいねはんずがあります。

史跡の松平家墓所
 幕末には天狗党一行が当山の境内に集まり、軍資金の調達にあたりましたが、その際つけた刀傷が旧本堂の柱などに残っていました。この本堂は解体されましたが、大洗町の願入寺に移され、刀傷は残っています。本堂は平成三年に再建の計画が立ち、客殿の新築、庫裏、山門の再建も合わせて計画、完成されました。
 常陸府中藩主松平家墓所は一九七八(昭和五十三)年八月二十三日、石岡市の史跡に指定されました。松平家は初代の頼隆から十代頼策の明治維新まで続きました。定府制だったので、江戸小石川に上屋敷があり、歴代の墓地も小石川宗慶寺にありましたが、大正十五(一九二六)年、照光寺に移されました。
 江戸時代後期には照光寺学寮があり、良経上人が中心になって、武家の子弟に教育を行い、多くの若者が学びました。このことは、記念碑に刻まれています。この学寮は石岡小学校校舎、夜学校舎を経て、現在は保育園になっています。
 寺の年中行事としては、春秋彼岸会、施餓鬼会、盂蘭盆会、除夜鐘、修正会など、檀家が参加して行われています。




無量院=時宗(つくば市北条)(42)    NEXT工事中