茨城寺社巡礼    042

無量院=時宗(つくば市北条) 制作:(一財)茨城県郷土文化振興財団


平成十六年に落慶、記念碑が建てられ、寺は整備された








 

 
時宗4代の呑海上人が開基
天台宗から時宗に
 建久元(一一九〇)年十一月、多気山城主常陸大掾多気太郎義幹が、道場山に建立し、西山之道場梅松山無量寿院光明寺という天台宗の寺でした。しかし、建久四(一一九四)年五月、小田城主八田知家に滅ぼされました。
 その後、正中年間(一三二四―二五)に時宗四代の呑海上人が、筑波地方を布教、無量院にも立ち寄り、開基の義幹やそのほかの霊を供養しました。その時、義幹の戒名を無量院殿とし、寺の名も無量院に改め時宗になりました。
 現在の場所に移ったのは嘉暦年中(一三二六―七九)で歴代の住職については、二十五世の寛永年中(一六二四―四四)まで不明です。徳川家光から朱印を受け、その後、代々九通の朱印を受けたそうですが、朱印状は現存しません。

死を予告した察道上人
 一時、寺が荒れていましたが、承応二(一六五三)年に庫裏と客殿を修理しました。三十二世の東因上人のとき、本堂再建の計画をし、三十三世の察道上人になってから、本堂が再建されました。その時期は不明ですが、享保十八(一七二三)年になって整備されたといわれています。
 この察道上人は境内の地蔵堂の地蔵菩薩の開眼導師をつとめたと過去帳にあります。また、和尚は自分の死亡の時期を二十三年以前より七月十六日であると予告していました。そして、寛保三(一七四三)年六月中旬より病床に臥し、七月十六日の朝、身体を清め、衣と袈裟をまとい、本尊に向い合掌して、念仏を唱えながら大往生を遂げたといいます。
 四十七世廊龍上人は明治十二(一八七九)年に二人の幼い子を残して亡くなりました。夫人も同じ年に亡くなり、檀家は困り、二人を藤沢の本山に預けました。そこで二人は修行し、兄は遊行六十七世尊浄上人となり、弟は学僧になりました。

本尊は鎌倉時代の作
 本尊は阿弥陀如来立像で脇仏は観音菩薩像と勢至菩薩像ですが、脇侍は時代がさがるようです。本尊の像高は七十八㌢で、つくば市の文化財に指定されています。檜材、寄木造、玉眼入り漆箔で両手は差し込んであります。中国の宋風の影響を受けた衣文が華やかな鎌倉時代後期の作です。
 『茨城の寺四』(昭和五十年刊行)執筆のために本寺を訪れた時は本堂の修理や寺報を発行していました。過去帳は承応三(一六五三)年のものと、慈海上人が文化四(一八〇七)年に書いたものがあります。なお、大正三(一九一四)年の「明細帳」には次のようにあります。
 当寺ハ時ノ北条城主タル多気太郎義幹公ノ菩提を弔センガ為、建久四年其ノ家臣等ノ草創ニ係リ、当時西山道場ニ造営シタル故ヲ以テ、西山道場梅松山無量寿院光明寺ト号ス。無量院トハ蓋シ公ノ法名無量院殿等阿弥陀仏ト言ヘルヨリトリテ改称シタルモノニシテ、後、嘉暦年中現今ノ地ニ移セルモノナリトイウ。開山ハ一向有阿上人ナリ
 平成十二年に本堂の再建を始め、平成十六年に落慶、記念碑が建てられ、寺は整備されました。
加波山三枝神社本宮(桜川市真壁町(41)    NEXT工事中