
仁王門は火災から免れ、昔の姿をとどめている
昭和52(1977)年に鉄筋コンクリートの本堂が再建され境内も整備された |

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□奈良時代の創建
南明山清瀧寺といい、坂東三十三観音札所の第二十六番です。残念ながら昭和四十四(一九六九)年の火災で本尊の聖観世音菩薩とともに焼失しました。創建は寺伝によると、推古天皇十五(六〇六)年、勅願によって竜ケ峰に創建し、大同元(八〇六)年、徳一大師が現在の位置に移したといいます。
そして、寺も隆盛になりましたが、天正元(一五七三)年をはじめ、度々の火災で焼失、再建と火災が繰り返されたようです。その中で、天保十五(一八四四)年五月十日に再建した本堂が、信仰の中心になっていましたが、昭和四十四(一九六九)年十二月に焼失しました。
本堂に行くのには石段六十段を登り、仁王門をくぐりますが、不幸中の幸いと申しますか火災から免れ、昔の姿をとどめています。焼失後、私が訪れたときは焼けた聖観音像の残像が残っていて、粗末な小堂が建てられていました。その後、昭和五十二(一九七七)年に鉄筋コンクリートの本堂が再建され境内も整備されました。
□坂東観音二十六番札所
坂東三十三観音は前にもお話しましたが、鎌倉市の杉本寺を一番として出発し、神奈川、埼玉、東京、群馬、栃木、茨城と回り千葉県館山市の那古寺で結願します。全行程は千三百㌔、徒歩で四十日かかります。鎌倉時代に源氏が西国の三十三札所を模して始め、江戸時代になって庶民に普及したようです。
茨城は二十一番の大子町上野宮の日輪寺(天台宗・十一面観音)から始まります。海抜一〇二〇㍍。二十二番常陸太田市佐竹寺(真言宗・十一面観音)、二十三番笠間市佐白観音・観世音寺(普門宗・千手観音)、二十四番桜川市本木楽法寺(真言宗・延命観音)、二十五番つくば市筑波大御堂(真言宗・観音菩薩)、そこから二十一㌔で清瀧寺へ参拝します。
わが心今より後はにごらじな 清瀧寺へまいる身なれば
これが御詠歌で、真言は「おん あろりきゃ そわか」を唱えます。清瀧寺は安産、子育てはもちろん、三十三観音巡りとして広く幸福を願って巡礼する人たちが訪れてきます。清瀧寺は無住の時代が長かったので、小野地区の人たち、五十五軒、そのうち総代に選ばれた四人が納経を受けていました。
□柳の下駄は禁物
寺の伝説では、境内に鳥類が寄りつかないといいます。それは、左甚五郎の彫刻した雌雄の龍が今にも空高く舞い上がりそうに見えるからだそうです。
また、清瀧寺参拝には、柳で作った下駄を履くことは禁じられていました。これを履くと、石段の途中で不思議にも割れてしまうといわれています。観音様が、日本へ柳の船で来たという伝承によるもので、柳は霊木とされているため、この霊木をけがれた足で踏みつけてはいけないという意味のようです。
昔、私が訪れたとき、中二階、格子戸の巡礼宿が、残っていました。昔はすべて徒歩で巡礼しましたから、宿は必要でした。
とにかく、地元の人たちによって支えられています。なお、現在の御本尊は佐白観音の寄進といいます。ここから巡礼は二十七番の銚子円福寺(飯沼観音)へ向います。
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