茨城寺社巡礼    028

善光寺(石岡市) 巡礼者 今瀬 文也


仁王門は国の文化財



昔は素晴らしい本堂だったが破損が激しい






 
室町時代後期の仁王門
破損の本堂悲しい
 月光山無量寿院善光寺といい、旧八郷町太田にある真言宗豊山派の寺です。寺の縁起によると、最初、山之荘小野村にあり、恵光院善光寺といいましたが、通称は小野寺といっていたようです。創建は建久年間(一一九〇~九九)で、八田知家の開基で、小田成治の文亀元(一五〇一)年三月、月光山頂に移されました。
 小田成治の母堂である雪主比丘尼は、阿弥陀如来を深く信仰し、立派な後世にも誇ることのできる本堂の建立を願いました。それを受けて、成治が建立しました。しかし、寛永五(一六二八)年に火災で焼失しました。
 「寺島誠斉記」は「善光寺・恋瀬村(太田)村長申、月光山太田村にあり、山は村の西北に位して南に面し、北は吾国山に接す。伝曰く、古昔山頂に堂宇あり、月光山無量寿院という。文亀中、小田成治の創建に関わるもの、寛永五年堂宇災に罹(かか)る。元禄十四(一七〇一)年、現堂建立入仏云々」とあります。
 現在の本堂は、この元禄の時代の建立と思われますが、正面向背など、後から付け加えたものもあります。現在、向かって右側の屋根と外壁は崩れ、全体の倒壊も時間の問題です。形式は方五間、入母屋造り、垂木尾垂木(びたるき)になっています。

□仁王門は国の文化財
 私は「近世社寺調査」『八郷町史』執筆、そして今回の執筆にあたって、本寺を訪れましたが、その度に破損が広がっています。仁王門をくぐって、参道を進み、かなり急な階段を登って本堂に着きますが、昔は素晴らしい本堂だったのですが、もう修理の段階ではなく、危険物の対象のようです。
 かつて、善光寺を中心に民家園構想を一色史彦氏(建築文化史家)が提案したことがありました。寺下に八棟の民家村を造り、職人の学校も造り、多くの人たちに集まってもらい、寺の維持もその収益で賄おうとするものでした。この計画は実現しませんでした。
 寺の維持は檀家次第で、裕福な寺は立派になっていますが、善光寺の場合は大変です。最近は時代劇の撮影の舞台になっています。荒れ寺として格好の場所です。
 こんな中で仁王門が(昭和五十八)年、国指定重要文化財に指定されました。四脚門、切妻造、茅葺で室町時代後期の様式をもった貴重な建物です。柱の荒れ肌、頭貫の木鼻、美しい蟇股(かえるまた)、蓑束(みのつか)、梁(はり)の下の彫刻などすべて整っています。

太田の万灯祭
 善光寺では旧暦の六月十四日に「太田の万灯祭」があります。縁日に先立って三人の既婚者を世話人に選びます。世話人は全長六㍍の真竹八本を探しておきます。旧暦六月十一日には、善光寺の仁王門を入って、池の掃除と田の作業をして幟を立てます。
 幟に使う竹は世話人が切っておき、昔は子供たちが「苗代の水の口、お池の松は姫の松」と歌いながら、竹を運びました。本堂では、午後十時ごろから、男たちが笠間や八郷から奉納された縄をより、櫓を組むための太い縄の準備をします。
 準備は「潮来出島のよれマコモ」と「潮来節」を歌い縄をより、櫓を組み、深夜に出来上がります。櫓の中央に、はしごを置き、上部には竹を結びつけ、皆で支えて倒れないようにします。一番上には「太田」と書いてある提灯、御幣、新竹を結びつけます。この櫓を万灯といいます。
 櫓には、希望者二人が登り、竹や綱をみな引っ張り支え、「潮来出島の~」を歌いながら善光寺を右回りに三周します。その後、櫓を倒して、解体し、参加者に配ります。それを家に持ち帰り、玄関先などに、厄除けとして飾りました。厄除けと豊作祈願のためと伝承されてきました。

 



大覚寺 (石岡市)(027)    善光寺 (石岡市)(028)