茨城寺社巡礼    023

善応寺(土浦市) 巡礼者 今瀬 文也


新しく建立された鐘楼堂から本堂を望む








善応寺の下にある照井の井戸

 
土浦城鎮護の祈願所

土浦城を鎮護
 照井山善応寺の創建は、寛文十(一六七〇)年で、土浦城主土屋但馬守数直が観音堂を建立し、土浦城鎮護の祈願所としました。その時、開山にあたったのは栄照です。それ以前のことについては不明です。
 二代が祐仙で詳細は不明、三代の俊賀の貞享二(一六八五)年に観音堂が焼失、円珍(智証大師)作と言われる観音像が焼失し、金銅で観音像を造り、焼け残った木像の頭を胎内に納め、観音堂は土屋数直によって、再建されました。
 五代の頼秀和尚の時、善応寺の縁起一巻が作られています。また、宝永三(一七〇六)年には鐘楼堂を建立、真鍋村の人たちによって、梵鐘が作られましたが、昭和十七年、第二次大戦のために献納されました。
 十代の広観の延享元(一七四四)年、境内に宝篋印塔(ほうきょういんとう)一基が建立されました。また、明和九(一七七二)年、境内に光明真言一億万遍供養塔が村人たちによって建立されました。その頃、村では数珠くりが行われていました。
 十四代の鏡寛きょうかんの寛政十二(一八〇〇)年の正月に真鍋に大火があり、観音堂、客殿、庫裏などすべてを焼失しました。

特徴ある本堂
 十五代の宥尊(ゆうそん)は享和元年(一八〇一)から文化十五(一八一八)年まで住職、文化元(一八〇四)年に庫裏、仮客殿を再建、文化十一(一八一四)年には、土屋相模守彦直によって、観音堂が再建されました。現在の庫裏、観音堂はその時のものです。
 この観音堂は、土浦市の文化財に指定されています。入母屋造の勾配の急な屋根をかけ妻を漆喰で塗籠にすること、鶴亀の懸魚をつけたこと、棟を三軒にしたことが特徴です。
 十七代の康哉こうやは文政年間(一八一八~三〇)の住職で、万葉集を研究し、和歌にすぐれ、多くの弟子をもっていました。この人は万葉法師ともいわれ、農民救済のために蔵書まで売ったといいます。

佐久良東雄が住職
 良哉は(佐久良東雄・一八一一~六〇)天保五(一八三四)年、住職になり、天保十四(一八四三)年に還俗して、尊皇攘夷運動に参加しました。本寺にある東雄の墓は昭和七(一九三二)年、ここに改葬されたもので、土浦市史跡に指定されています。観音堂にかかっている「聖観音」の扁額文字は東雄が天保十四年に書いた名筆で市文化財になっています。
 二十一代の秀阿の時には現在の客殿が建ち、その他、観音堂、庫裏の大修理を行い、寺の形が整いました。
 大正、昭和になって、二十七代の真浄が三十七年間住職、位牌堂を建立、佐久良東雄の歌集を出版しました。
 
照井の井戸は憩いの場所
 土浦市指定文化財としては、室町時代末の作と思われる石造灯籠、史跡として大久保要(一七九八~一八五九)と木原老谷(一八二四~八三)の墓があります。ともに土浦藩に仕えた文人と教育者です。
 善応寺の下には照井があり、臼井、鏡井ともいわれ、山号の照井はこの井戸に由来しました。水量が豊富で飲料水や灌漑用水として利用され、水戸街道を往来する人たちの憩いの場所でした。現在、土浦市の史跡に指定され、多くの人が訪れています。


大聖寺 (土浦市)(022)    一ノ矢八坂神社 (つくば市)(024)