茨城寺社巡礼    021

大宝八幡神社(下妻市) 巡礼者 今瀬 文也


 内陣には一間の方形状の宮殿があり、神像二基が安置されている


境内には数多くの文化財がある





高砂部屋の力士が夏合宿にやってくる



 
地方色豊かな建造物

 かつての大宝村は横瀬夜雨の故郷です。
 「参拝に出かけた。幾人にか追越され、追越されして大宝に入り、橋本のわきより木立暗き後坂を上り、さて拝殿の前に出づ。曇れる日かげやうやく西に傾きて、帰る人も多く候へど、なほ肩を磨り履をふむ賑わひに候」と夜雨は書いています。
 菊花の頃はとくに賑わいをみせ、団子屋が店を並べていました。私もしばしば神社を訪れ、宮司さんに刀剣や白磁についてお話を伺ったものです。
 祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、足仲彦命(あしなかひめのみこと)、気長足姫命(けながあしひめのみこと)です。

本殿は国の重要文化財
大宝神社のはじまりは、大宝元(七〇一)年で、藤原時忠が宇佐八幡宮を勧請し、代々源氏一族の信仰を受けてきました。境内にある若宮八幡神社は、源頼朝が鶴ヶ岡八幡宮の若宮を移したものといいます。
 境内は南北朝時代の大宝城の跡で国の史跡に指定され、付近には大宝沼がありました。平将門は皇みかどと自ら名乗りましたが、その位を授けたのは大宝八幡宮の巫女(みこ)だったといいます。
 本殿は安土桃山時代に再建されたものと言われ、国の重要文化財に指定されています。棟札や擬宝珠ぎぼしの銘文から天正五(一五七七)年、下妻城主多賀谷尊経(たがやたかつね)によって建立されたことが分かります。
 そのほか修理の際の棟札が元和四年(一六一八)年、寛永七(一六三〇)年とあり、屋根替は寛文二年(一六六二)以後頻繁に行われ、たくさんの棟札が残っています。明治四十二(一九〇九)年に解体修理、昭和四十年(一九六五)茅葺から銅板葺になりました。
 三間社流造で、束や蟇股(かえるまた)など派手な装飾のない落ち着いた地方色豊かな建造物として評価されています。内陣には一間の方形状の宮殿があり、神像二基が安置されています。

十二座神楽・タバンカ祭りなど盛ん
 祭礼は元旦祭、陪従祭(べいじょうさい)(二月卯の日)、節分祭とあり、春祭の四月十五日には、神楽殿で、十二座神楽が行われます。演目は五行、八幡、猿田彦、恵比須、那岐那美(二座)、稲荷、春日、岩戸(三座)の八種で、太鼓、鞨鼓、笛で演奏します。
 八月二十日は初祭で昭和二十(一九四五)年までは、奉納相撲がありました。
 九月十五日が大祭で大宝まちと言われ、その前の十二日と十四日の二夜、タバンカ祭という松明祭(たいまつまつり)が行われます。十二日は境内の末社、十四日は本社及び若宮の御幣替における浄闇(じょうあん)の中での、灯明の役をも果たす勇ましい祭りで、厄除けなどの意味をもった神事です。この祭りの時、御飯をまきますが、それを拾ったものは健康に恵まれるといいます。
 十五日夜には流鏑馬神事があり、一つ物の神事と言います。昔、青竜権現に若い娘を人身御供にする風がありました。ある年、一つ目の藁人形を娘の代わりに置いておいたところ、それ以後、人身御供はなくなったそうです。それにちなんで、人形を馬に乗せ、しめたすきを掛けた青年が社殿を三周し、最後に人形は大宝沼に流します。

文化財が豊富
 県指定の銅鐘(どうしょう)は総高百八㌢で下妻の豪族多賀谷氏が奉納したものと言います。鐘の銘文に武蔵平林寺、嘉慶元(一三八七)年造立とあり、享徳五(一四五六)年、下総猿島郡星智寺に移したという追銘もあります。南北朝時代の梵鐘として貴重なものです。
 県指定文化財の瑞花ずいか双鳥(そうちょう)八稜鏡(はちりょうかがみ)は、白銅製で径は十一・一㌢、十一世紀頃の作で唐草と蝶が対称的に描かれています。
 丸木舟も県の文化財で、安政年間(一八五四~五九)に大宝沼で発見されたと言われ、長さ六〇五㌢、「うつろ舟」の名で社宝、古墳時代後期の作と推定されています。


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