
国指定重要文化財の三重塔

本堂のあうん獅子像
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市指定の大杉など境内は自然に恵まれている
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□行基菩薩の開基
JR水戸線岩瀬駅から施無畏山(せむいさん)宝樹院小山寺までは、約二・五㌔、天台宗の寺で、天平七(七三五)年、聖武天皇の勅命により、行基が開基したと伝えられています。
寺伝では最初、長福禅寺といい、富谷山全体が霊山で、三十六院あり、慈覚大師も訪れたといいます。久寿二(一一五五)年から暦仁元(一二三八)年まで、小山下野守朝政が帰依し、小山寺にいたといいます。
また、「常陸国笠間郡小山寺大檀那長門守藤原朝臣朝朝」という経文の入った大日如来像が山形県寒河江市慈恩寺から、昭和五十九(一九八四)年に発見されています。
応永の乱によって、寺は荒廃していましたが、結城氏、多賀谷氏、大野氏の保護を受け、堂宇の修理などが行われ、現在にその威容を伝えてきました。
□創建当時の三重塔
山を登って行くと、国指定重要文化財の三重塔が見えてきます。総高二十一・五㍍で寛正六(一四六五)年、下妻城主多賀谷朝経が願主となって、大工宗阿弥家吉とその息子が建てたもので、江戸時代の修理時に書かれた刻銘が相輪宝珠にあります。
昭和六十三(一九八八)年から平成二(一九九〇)年にかけて、解体修理が行われ、創建当時の姿に戻りました。柿葺(こけらぶき)の屋根、和様様式に須弥壇など禅宗の様式を取り入れています。蟇股(かえるまた)は形がよく、中の彫刻も左右対称とするなど古風で、関東以北では最古に属する三重塔です。
なお、今回の調査で延元元(一三三六)年の墨書の木組が発見さたので、この時代の創建とも思われます。
□建造物は県指定
そのほか、本堂、仁王門、鐘楼は県の文化財に指定されています。本堂は五間の仏堂で、様式は和様を主とし、唐様の手法も混じっています。全体的に丹、墨、胡粉(ごふん)による塗装をし、彫刻類は極彩色塗りとなっています。棟札(むなふだ)には、元禄十(一六九六)年建立とあり、この年代のものとしては、非常に形の整ったものです。
仁王門は三間一戸の楼門で本堂より建立年代は新しいが、細部の手法や塗装などは本堂に類似しています。なお、現在は二階斗供の上半分は失ない、低くなっていますが、元は三手先組であった跡を残しています。棟札には享保十六(一七三一)年の建立とあります。
鐘楼は細部の手法からみて仁王門と同じ時代のものです。四方転(ころ)び円柱の上に枠肘木(わくひじき)を置いて切妻屋根を乗せた形式のもので、とてもよくまとまっています。
□本尊は鉈彫の観音像
本尊の十一面観音菩薩像は昭和三十三(一九五八)年に県の文化財に指定されたもので、一木造り、像高二㍍もある大きなものです。面部、体部、上膊(じょうはく)部に横縞目の丸のみの跡を残す鉈彫(なたぼり)として有名です。鉈彫りというのは、木彫制作の時、荒彫りか小作りといわれる段階のまま、意識的に残したもので、平安時代後期、関東、東北地方にみられた様式です。
毘沙門天像も県の文化財に指定されている室町時代の作です。寄木造り、漆箔(しっぱく)、像高百四十㌢で、十一面観音像の脇侍として、不動明王とともに安置されています。ヒノキ材、玉眼、首ほぞを設けたもので、右手に三叉鉾(さんさほこ)、左手に宝塔を持ち、邪鬼の上に立っています。
百観音堂には坂東、秩父、西国の百観音が安置されています。文化四(一八〇七)年の創建で寝釈迦像もあります。小山寺は俗に富谷の観音といい安産、子育てに利益があり、四月十八日の縁日は護摩を焚き、お守りとして、握秘符(あくひふ)と白の綿布で作った笈摺(おいずり)を授与します。
なお、本堂には大相撲の絵馬などが奉納されています。本堂の格天上、あうんの獅子像などが貴重です。市指定の大杉など境内に恵まれているのですが、山砂利採取による埃や振動が心配です。
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