茨城寺社巡礼    018

海蔵寺(土浦市沖宿) 巡礼者 今瀬 文也


 県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像は運慶風



寺の入り口には、六地蔵の石仏がある


住職が花好きなこともあり、境内には四季折々の花に囲まれている



 
 
四季折々の花が美しい

小田治朝の開基
 海蔵寺は土浦市沖宿町にある曹洞宗の寺で、寶珠山と号しています。創建は応永年間(一三九四~一四二八)で、小田治朝(はるとも)が開基し、明堂鹿聡(みょうどうろくそう)が開山にあたりました。最初は高台にあったといいます。
 小田治朝の墓は土浦市の史跡に指定されています。父は九代目小田城主孝朝で、母は佐竹義篤の娘です。治朝は讃岐守常陸介右近衛少将といい、海蔵寺を開基し、応永十(一四〇三)年に四十一歳で亡くなり、海蔵寺に埋葬されました。法号は「海蔵寺殿義山尊玄大居士」です。
 その後、文禄年間(一五九二~九六)に高台から現在の平地へ移り、再建されました。

大般若経は県指定文化財
 海蔵寺には県指定文化財の大般若波羅密多経があります。紙本墨書の折本仕立て三百九十一帖です。本来六百帖あるものですが失われています。最初は巻子本でしたが、江戸時代に折り本仕立てになりました。奥書には承安五(一一七五)年とあります。
 この大般若経は、最初、鹿島神社に奉納されたもので、後に神宮寺に保存されていたが廃寺になって、海蔵寺へ移されたものです。昔は病人があると貸し出され、そのまま、返却されなかったりして、失われたようです。
 この大般若経には伝説があります。源頼朝に追われ奥州へ逃れる途中の源義経が沖宿に滞在した時、弁慶が大般若経を書写し、青葉の笛とともに、鹿島神社へ寄進したと言われていますが、義経が本県に来た史実はありません。
 ここで大般若経について解説しておきます。大般若経はインドで起源前に成立しました。それを玄奘(げんじょう)(六〇二~六六四)がインドに渡り、仏法を学び、六四五年に帰国して、それまでの誤りを正し、漢訳したものです。

巻子本から折本に
 日本へは、仏教伝来と一緒に伝わり、転読会といってその一部を読み、厄を払うことや、その一部を書写して御利益に預かることが行われてきました。
 寺や民間では、オデイハンニャといってお経入りの箱を担いで、檀家を一軒一軒回って歩く行事があります。県内では真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗の寺で大般若経転読会を行っていました。しかし、六百巻の経典を購入するのは大変なことでした。
 海蔵寺の大般若経は奥書のあるものでは、県内関係では一番古いものです。那珂市の毘廬遮那寺の大般若経は、明応三(一四九四)年から明応七年にかけて書写、八幡宮に奉納、後、寺に移されたものです。ここも最初は巻子本で、後に浄財を集め、折本にしました。
阿弥陀如来は運慶風
 ところで、海蔵寺は境内が整備され、山門には寶珠山の額が掲げられ、その奥に本堂が見えます。寺の入口には六地蔵の石仏などがあります。また、付近には蓮田もあり、すばらしい花を咲かせます。
 寺宝として県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像があります。廃寺になった神宮寺にあったもので、頭の部分が欠けていましたが、修理され、十㌢ほど像高が伸び、八十㌢になりました。胎内に修理銘とみられる墨書があり貴重です。
 「指定説明書」によると、像は榧かや材を使い、寄木造、玉眼が入り、漆箔で、白毫、両手、左手袖口、裳先などは後補です。螺髪は大粒で面相は豊かに感じられ、彫りが深く、運慶の様式を取り入れた像で鎌倉時代の作と言われています。

 


本堂

飯名神社 (つくば市)(017)    小山寺 (桜川市)(019)