茨城寺社巡礼    016
大御堂(つくば市) 巡礼者 今瀬 文也


坂東三十三観音の二十五番目の札所としてにぎわう大御堂





大御堂鐘はつくばの峯にたてかた夕暮れに国ぞこひしき
(御詠歌)

筑波山中禅寺の遺構を伝える古刹

 筑波山大御堂は筑波山神社の近くにあり、 大本山護国寺別院、 坂東三十三観音の二十五番目の札所として、 多くの人たちが訪れて来ます。
 坂東三十三観音は鎌倉市の杉本寺を一番として、 神奈川、 埼玉、 東京、 群馬、 栃木、 茨城と回り、 三十三番の千葉県館山市の那古寺で結願します。
 県内では二十一番が日輪寺 (大子町・天台宗)、 二十二番が佐竹寺 (常陸太田市真言宗)、 二十三番が観世音寺 (笠間市・普門宗)、 二十四番が楽法寺 (筑西市)、 二十六番が清瀧寺 (土浦市・真言宗) です。

徳一大師の開基
 かつては、 筑波山神社の東西の境を分けて寺中とし、 山の神の本地仏を安置し、 知足院中禅寺といっていました。 また大御堂もこの中にありました。 そして、 千手観音を山上諸神の総本地としていました。 この中禅寺は延暦年間 (七八二~八〇六) に徳一大師が開基したといいます。
 徳一大師は法相宗に属し、 藤原仲麻呂の子で東大寺に住んでいましたが、 最澄と再三にわたり論争、 後、 東国に流されました。 最澄が 「法華一乗」 を唱えたのに対し、 徳一は 「仏性抄」 を撰して論争したといいます。
 最澄は 「法華経にすべての仏教が統一され、 平等に仏になれる」 と説いたのに対し、 徳一は 「五性格別によって仏になる段階がある」 とし、 平等視に疑問をもちました。
 東国に流された徳一は筑波に来て中禅寺を建て、 ここを中心に布教、 県内にもゆかりの寺院が多数あります。 徳一は仏閣や僧坊を筑波に建て一大寺院としました。

真言宗に改宗
 その後、 真言宗の開宗された弘仁年間 (八一〇~二四)、 弘法大師の命によって、 密教弘道の道場として信仰されるようになったといいます。 『筑波名勝誌』 は、 古くから巡拝の人たちで、 賑わっていたと書いています。 また、 中禅寺の別当も一大勢力をもっていて筑波氏を名乗っていました。

大御堂鐘はつくばの峯にたて
かた夕暮れに国ぞこひしき

わしの峰飛び着てここに筑
波根の神や仏の浄刹とぞなる
 
 これが坂東三十三観音の大御堂の御詠歌です。 徳川幕府からも多くの寄進を受け、 七堂伽藍が整い、 賑わっていました。 これには次の言い伝えがあります。 徳川秀忠の乳母の子にあたる光誉上人が住職をし、 大阪の陣に参戦し戦勝を祈願したことです。
 貞享三年 (一六八六) 六一世の隆光上人の代には、 寺領千五百石、 三百人の僧侶がいたといいます。
 □排仏毀釈から再興
 ところが、 明治初年の排仏毀釈によって、 明治五年には、 仏像や仏画が焼かれ、 大御堂や三重塔、 十一面観音堂などが破壊されました。
 その中でわずかですが、 東京の護国寺、 猿島の万蔵院、 筑波の慶龍寺などに移されたものがあります。
 万蔵院には 「中禅寺」 という扁額、 如意輪観音などの仏像、 礼盤などの法具があり、 慶龍寺には、 鐘楼が移され、 昔をしのぶことができます。
 本堂は昭和三十六年に再興され、 本尊の千手観音菩薩像が安置されています。




わしの峰飛び着てここに筑波根の神や仏の浄刹とぞなる
(御詠歌) 

筑波山神社 (つくば市)(015)    飯名神社(つくば市)