
坂東三十三観音の二十五番目の札所としてにぎわう大御堂


大御堂鐘はつくばの峯にたてかた夕暮れに国ぞこひしき
(御詠歌) |
筑波山大御堂は筑波山神社の近くにあり、 大本山護国寺別院、 坂東三十三観音の二十五番目の札所として、 多くの人たちが訪れて来ます。
坂東三十三観音は鎌倉市の杉本寺を一番として、 神奈川、 埼玉、 東京、 群馬、 栃木、 茨城と回り、 三十三番の千葉県館山市の那古寺で結願します。
県内では二十一番が日輪寺 (大子町・天台宗)、 二十二番が佐竹寺 (常陸太田市真言宗)、 二十三番が観世音寺 (笠間市・普門宗)、 二十四番が楽法寺 (筑西市)、 二十六番が清瀧寺 (土浦市・真言宗) です。
□徳一大師の開基
かつては、 筑波山神社の東西の境を分けて寺中とし、 山の神の本地仏を安置し、 知足院中禅寺といっていました。 また大御堂もこの中にありました。 そして、 千手観音を山上諸神の総本地としていました。 この中禅寺は延暦年間 (七八二~八〇六) に徳一大師が開基したといいます。
徳一大師は法相宗に属し、 藤原仲麻呂の子で東大寺に住んでいましたが、 最澄と再三にわたり論争、 後、 東国に流されました。 最澄が 「法華一乗」 を唱えたのに対し、 徳一は 「仏性抄」 を撰して論争したといいます。
最澄は 「法華経にすべての仏教が統一され、 平等に仏になれる」 と説いたのに対し、 徳一は 「五性格別によって仏になる段階がある」 とし、 平等視に疑問をもちました。
東国に流された徳一は筑波に来て中禅寺を建て、 ここを中心に布教、 県内にもゆかりの寺院が多数あります。 徳一は仏閣や僧坊を筑波に建て一大寺院としました。
□真言宗に改宗
その後、 真言宗の開宗された弘仁年間 (八一〇~二四)、 弘法大師の命によって、 密教弘道の道場として信仰されるようになったといいます。 『筑波名勝誌』 は、 古くから巡拝の人たちで、 賑わっていたと書いています。 また、 中禅寺の別当も一大勢力をもっていて筑波氏を名乗っていました。
大御堂鐘はつくばの峯にたて
かた夕暮れに国ぞこひしき
わしの峰飛び着てここに筑
波根の神や仏の浄刹とぞなる
これが坂東三十三観音の大御堂の御詠歌です。 徳川幕府からも多くの寄進を受け、 七堂伽藍が整い、 賑わっていました。 これには次の言い伝えがあります。 徳川秀忠の乳母の子にあたる光誉上人が住職をし、 大阪の陣に参戦し戦勝を祈願したことです。
貞享三年 (一六八六) 六一世の隆光上人の代には、 寺領千五百石、 三百人の僧侶がいたといいます。
□排仏毀釈から再興
ところが、 明治初年の排仏毀釈によって、 明治五年には、 仏像や仏画が焼かれ、 大御堂や三重塔、 十一面観音堂などが破壊されました。
その中でわずかですが、 東京の護国寺、 猿島の万蔵院、 筑波の慶龍寺などに移されたものがあります。
万蔵院には 「中禅寺」 という扁額、 如意輪観音などの仏像、 礼盤などの法具があり、 慶龍寺には、 鐘楼が移され、 昔をしのぶことができます。
本堂は昭和三十六年に再興され、 本尊の千手観音菩薩像が安置されています。

わしの峰飛び着てここに筑波根の神や仏の浄刹とぞなる
(御詠歌)
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