茨城寺社巡礼    014
女化神社(竜ヶ崎市馴馬) 巡礼者 今瀬 文也


祭神は保食命で五穀豊穣と家内安全を祈る


境内には山神神社、菅原神社、白山神社、香取神社がある




     
「狐の恩返し」伝説で知られる
賑わう旧初午
 国道6号から龍ヶ崎ニュータウンを抜けて県道48号を左折、二㌔ほど行くと、牛久市女化町の中に龍ヶ崎市の飛び地があり、そこに女化神社があります。JR常磐線佐貫駅からニュータウン長山行きバスで十五分、終点で降りて徒歩十分ほどで神社に着きます。
 女化神社は、昔、稲荷大明神と言っていましたが、女化稲荷となり、明治二(一八六九)年には一時、保食社の時代もあり、明治十七年にはまた、女化神社に戻りました。
 祭神は保食命(うけもちのみこと)で五穀豊穣と家内安全を祈ります。境内には山神神社(大山祇命)、菅原神社(菅原道真)、白山姫神社(伊邪那美命)、香取神社(経津主命)があり、例祭は旧二月初午で二の午と合わせ、植木市が開かれ、多くの参拝者で賑わいます。春祭りが三月二十二日、秋祭りが十一月二十三日です。神社の創建は永正二(一五〇五)年と言われています。
助けた狐が恩返し
 神社に関わる伝説として「狐の恩返し」がありますので紹介しておきます。
 根本村に忠五郎という情け深くて親孝行な男がいました。ムシロを織って、それを売り生活していました。ある日、土浦へムシロを売りに行った帰り道、根本が原で、猟師に射られようとしている狐を助けました。忠太郎は猟師にムシロの売上金を渡し、狐を救ってもらったのです。
 その日の夕方、五十歳ぐらいの男と、二十歳ぐらいの女が忠五郎の家を訪ねてきて、「一夜の宿を貸してください」と頼むので、忠五郎親子は気の毒に思って泊めてやりました。ところが、男は夜中に姿を消しました。
 翌朝、女は「私は奥羽信夫の者で、両親に死なれ、鎌倉の叔父に世話になろうと、長年、家で使っていた下男を連れて来ましたが、昨夜、私が寝ている間に、私のお金を持って逃げてしまいました。しばらくの間、ここへ置いてください」と頼みました。
 そこで、忠五郎親子は、四、五日ぐらいならと思い置いてやりますと、いつの間にか四、五十日も過ぎてしまいました。女はとてもきれいで、田畑の仕事、縫い物など何でもよくやるので、忠五郎親子は大変気に入り、忠五郎と女は結婚しました。
 月日がたって、二人の間には、一女二男の三人の子まで生まれました。
泣く泣く去った狐女房
平和に暮らしていたのですが、八年目の秋のある日、母親は庭の小菊を見ているうちに、尻尾が出て、狐の正体をあらわしてしまいました。 そこで仕方なく、

 みどり子の母はと問はば女化けの
     原に泣く泣く臥すと答へよ


という歌を二男の帯に結びつけて根本が原に帰って行きました。
 それ以来、根本が原を女化原とも呼び、大明神を女化稲荷と唱えました。この女は忠太郎が助けた狐で、忠太郎に恩返しをしたのでした。
 『信田白狐伝』(一七五七)などが素になった話で、筑西市(旧明野町)の安部清明の話の狐女房で、全国に分布しています。狐の命を助け、女に化けた狐が男の嫁になり、正体のばれるのを恐れ去ったり、ばれて去ったり、異類婚姻譚です。
 これは後物語なのでしょうが、母を失った二男は成長して京都にのぼり、立身出世しました。その子は、生まれつきすぐれた才能を持ち、七歳で大人も及ばない学問技芸に達し、十七歳のとき、常陸の故郷へ帰り、岡見氏の家臣の栗林左京の所へ婿入りしたと言われています。
 女化稲荷の御利益を伝えるお話としていろいろの形に脚色され、伝えられています。
 

掃き清められた境内にあるキツネの置物 

八柱神社(桜川市)(013)    筑波山神社 (つくば市)(014)