茨城寺社巡礼     012

普門寺(つくば市) 巡礼者 今瀬 文也


普門寺本堂。境内には石仏・石塔が寄進されている


梵鐘は戦時中供出。真壁の小田部さんが鋳造し復活し、改築された鐘楼から朝夕、鐘の音が流れる 


山門をくぐると満開の桜並木
 
 

「筑波の里」ウオーキングのコースになっており、訪れる人たちで賑わっている
     
 本尊は釈迦如来阿弥陀如来

  普門寺はつくば市神郡にある真言宗豊山派の寺で、慈眼山三光院と号しています。三十四年前、『茨城の寺・三巻』発刊の際、訪問して以来のことですが、当時荒れていた寺が見事に整備され、「筑波の里」ウオーキングのコースになっており、訪れる人たちで賑わっています。
 私が訪れた日も多くの人の来山があり、あげ餅とドーナツとお茶が準備されていました。私も御相伴にあずかり、寺の歴史などを伺いました。
 □天台宗から真言宗に
創建は元亨年間(一三二一~二四)で乗海和尚が開山にあたりました。その頃は志筑山といい天台宗の寺でした。第五世の慶珍和尚は応永九(一四〇二)年に亡くなりましたが、天台学を学んだ学僧で、当山を鎮護するために、山王権現を勧請しました。
 比叡山と日吉権現(山王)の関係を重要視したもので、前にも述べましたが、東城寺と日枝神社の関係と同じです。
 その後、小田城主の帰依により、真言宗に改宗し山号・院号が現在の名称になりました。鎌倉時代の末期には小田領四カ寺の一つとなり、最盛期には末寺を五百八カ寺を持ち、田舎本寺の格式をもっていました。
 江戸時代になり、慶長七(一六〇二)年十一月には、幕府から寺領三十石の寄進を受けています。小田氏は十五代続き天正十八(一五九〇)年に滅び、普門寺はその保護を失い衰退していきました。
 □小田氏の帰依を受けた名刹
 延享二(一七四五)年の『江戸幕府寺院本末集成』(雄山閣出版)の「常陸国新義真言宗本末帳上」には本寺大和国醍醐法成就院三十石とあります。そして末寺、門徒、それらの末寺、門徒を含めると、二百八十三カ寺になっています。
 第十八世の元雅和尚は寛永十四(一六三七)年二月十五日に遷化せんげしましたが、小高い丘に穴を掘り、そこに入定しました。ここは入定洞といわれ、大きな椎の木の下に石造仏が多数みられます。
 普門寺は小田氏の祈願寺だったので、檀林所の役割が強く、かつては地域の人々の関わりがなく、民間的な信仰は少なく、衰退に拍車をかけたようです。昭和になって第四十八世宥賢が諸堂宇の大改修を行い、平成十一(一九九九)年には墓地の造成も行われ、きれいに整備されています。
 □新旧の文化がみられる境内
 ここからの筑波山の眺めは格別で、訪れる人々の心を癒してくれています。また、境内には石仏・石塔が寄進されています。
 その中で本堂、客殿は古い姿を残しております。本堂は寛政年間(一七八九~一八〇一)、客殿は明和年間(一七六四~七二)赤門は天明年間(一七八一~八九)にそれぞれ再建されています。なお書院が慶応年間(一八六五)の建立といわれています。
 民間信仰として人気のある大師巡りがありますが、本寺の大師堂は昭和五(一九三〇)年十月に移築されたものです。
 鐘楼は寛政年間に本堂が建った時期と同じで、梵鐘は戦時中供出し、後になって、真壁の小田部さんが鋳造し復活し、改築された鐘楼から朝夕、鐘の音が流れます。
 本尊の第一は阿弥陀如来で源信の作といわれ、第二の本尊は釈迦如来です。これについて、住職の遮那宥弘さんは「釈迦は迷わず進めと教え、阿弥陀は他に目もくれず阿弥陀浄土へ来いと手をさしのべている」といい、京都嵯峨の二尊院も釈迦と阿弥陀が本尊であることを述べています。
 参道脇には水戸天狗党の「田中原蔵隊陣営の跡」の石碑や十九夜塔の石碑もみられます。境内面積九〇〇〇平方㍍には草花を植えられています。


 第18世の元雅和尚入定洞。大きな椎の木の下に石造仏が多数みられる 

東城寺 (土浦市)(011)    八柱神社 (桜川市真壁)(013)