茨城寺社巡礼     011


東城寺(土浦市) 巡礼者 今瀬 文也




 




 
 
 
   


     土屋氏の参拝後、東城寺に

最初は天台宗
 土浦市東城寺にある真言宗の寺で、 延暦十五 (七九六) 年二月に創建されたと伝えられますが、 平成九 (一九九七) 年の火災で本堂を焼失しました。 私は四月二日に寺を訪れました。 檀家のない祈願寺ですが、 多くの人たちの寄進によって本堂は再建されました。
 寺を守っている人たちにお会いしお話を伺い、 キノコ汁を御馳走になってきました。「あいにく、 御本尊の薬師様が焼けてしまいました。 しかし、 皆さんの協力で、 本堂が再建されました」
 東城寺の開基者は最澄 (伝教大師) の直弟の最仙で桓武天皇の勅命により、 常陸講師になり、 比叡山延暦寺根本中堂を遷して、 天台宗朝望山薬師寺としました。最初は現在の薬師堂の正面に見える山にありましたが、 応和二 (九六二) 年の頃、 用水不便で焼失したといいます。
 そのこともあって、 霞ケ浦を望める現在の地に遷されました。 地形が比叡山から琵琶湖を眺める地に似ているともいいます。
 本尊の薬師如来は、 今回の火災で焼失しました。 県指定文化財で、 像高一九一・七㌢、 ヒノキ材、 粒の大きい螺髪らはつ、 切れ長の両眼は大きく、 宋風そうふうの像でした。 鎌倉時代から室町時代に作られたものといわれ、 像内には応安七 (一三七四) 年の年紀や人名の朱漆銘があり、 大事な仏像でした。

小田氏が真言宗に
 天台宗の根本道場でしたが、 文治元 (一一八五) 年になって小田城主小田氏の帰依によって真言宗に改宗され小田氏の祈願寺として保護されました。 有名な頭白ずはく上人も住職し、 永正七 (一五一〇) 年二月三日に母の供養のために、 筑波の小田に後生車を建立しました。      
 元亀 (一五七〇~七三)、 天正 (一五七三~九二) には小田と佐竹が戦い、 小田氏は滅びました。 そのため、 小田氏の五輪塔は散乱し、 寺への保護もなくなりました。 その後、 文禄三 (一五九四) 年に円光によって堂宇の改修が行われました。 円光の亡くなったところを入定塚にゅうじょうづかといい、 かつては石地蔵がありました。

十五石の朱印寺
 その円光から九世の裕栄は宝永六 (一七〇九) 年に色衣着用の許可を得ています。 それより以前の慶安元 (一六四八) 年には十五石の朱印を受けました。 天和三 (一六八三) 年には、 諸仏像に彩色を施し、 その後、 堂宇の修理や彩色が頻繁に行い、 寺の維持につとめていました。
 東城寺近くには釈迦院、 宝光院、 東光院などがあり、 支配していました。 明治になって、 東城寺は朱印を返上、 寺の運営は大変になりなしたが、 明治二十 (一八八七) 年には屋根を瓦葺きにしています。
 寺名の東城寺はかつて東成寺といっていましたが、 土浦城主土屋氏が参拝したおり改めたといいます。
 寺の入口には仁王門があり、 両脇には阿吽の仁王像が安置してあります。 その仁王門から本堂まで五〇〇㍍、 昔は参拝者でにぎわいました。

境内に文化財
 境内には木像広智こうち上人坐像を安置した小堂があります。 嘉禎三 (一二三七) 年作で像高七五・七㌢。 両眼を見開いた老僧の姿をし、 五鈷杵ごこしょを持つ肖像彫刻で平成二 (一九九〇) 年、 県指定文化財になりました。 東城寺縁起には 「一樹銀杏在りて一木を以って二間四方の祖師堂を作り、 木坐像を安置する」 とあります。 広智上人は慈愛をもって多くの人を救済したといいます。
 昭和四十一 (一九六六) 年、 県指定文化財になった室町時代後期の石造燈篭は庭園に安置されています。 花崗岩で作られ幢身を六角に作り、 それぞれの面に地蔵が彫ってあります。
 結界石も昭和四十一年、 県の文化財に指定されています。 雲母片岩材で高さは一・二㍍あり、 碑面中央に大きく大界外相、 右側に建長五 (一二五三) 年、 左側に九月二十九日とありますが、 風化して読めません。 本来は村内にあったものですが、 寺に移し保存されています。

常福寺 (土浦市)(010)    普門寺 (大洗町)(012)