![]() (財)茨城県郷土文化振興財団 |
![]() 高照観音堂入口の道標 ![]() 険しい山道を登る |
走熊の人たちが何度も再建 磐城三十三観音霊場で一番登山に厳しい第十七番札所高照観音へ来ました。「東国の古代仏教」(茨城県立歴史館・図録)に「都を離れて地方の山岳寺院に居住する僧侶が現れた。磐梯山麓の慧日寺や筑波山中に中禅寺を開いた徳一がいる」とあります。 そう言われれば、寺博士は、高照観音堂参拝は無理かもしれないと言っていました。高照観音堂の本尊は十一面観音像で、私が彫ったと言います。 この堂も何度か火災にあっています。永禄(1558~70)の頃と元文年間(1736~41)に火災で焼失し、再建、大正四年(1915)、昭和4年(1929)にも焼失しています。現在の堂は昭和四十五年に再建された2間四方の耐火構造建築で、ちょっと寂しい建物です。 ここは走熊の人たちによって守られて来ました。この観音堂の別当は、真言宗の高照山東泉寺でしたが、明治初年の排仏毀釈で姿を消しました。盆の十七日が縁日で、かつては、走熊の獅子舞が奉納さていましたが、昭和五十六年(1981)頃、後継者がなく中止されているようです。 かつては絵馬の奉納もたくさんあり、伝説が残っています。絵馬の中の馬が夜になると抜け出して、蔵持に行き、悪戯したといいます。茨城でも同類の話がたくさんあります。 世の中は ふもとにありや 東泉寺 ひは高寺に 水はしりぐま 私の事について、多くの方々が研究されていますが、生没年が推定で、それに親の名も未詳です。いつか、資料が出てくると思いますが、分りません。私の著作もたくさんあったのですが、書名だけで中味がありません。「真言宗未決文」だけは現存しています。今のところ、寺博士が調査して、後に引き継ぎたいと言っておりますので、期待しています。最澄・空海両氏との関係、大同元年・二年には興味があります。
|
![]() 観音堂は昭和四十五年に再建された2間四方の耐火構造建築 |
![]() 走熊の獅子舞 |
![]() |