徳一が歩く   長久山延命寺(62)                                    (財)茨城県郷土文化振興財団


山間の集落を見下ろす高台建つ延命寺

たくさんの仏像が所狭しと安置されている

左の石碑に私の名が出てくる
      本尊の秘仏を誰も見ていない
 三島町で私との関連で現存するのは、真言宗豊山派長久山延命寺だけです。縁起によると、大同年間(806~809)私か弘法さんの創建とありますが、弘法さんは行脚には出ていません。私の創建ではないでしょうか。
 それに、天文21年(1552)西方鴫ケ城(しぎがじょう)の山内信重が滅ぼした御坂山大高寺(だいこうじ)三十六坊の一つであった「延命坊」が前身ではないかということです。これは、私の作ったものだと言われています。
 『新編会津風土記』には、開基は不詳で、永禄7年(1564)上州沼田の見真が現在地に再興し、享保21年(1736)再建されたとあります。
 現在、本堂と客殿、庫裡(くり)がありますが、住職は兼務の左の石碑に私の名が出てくるようで会えませんでした。本尊の虚空蔵菩薩像は秘蔵されていて、誰も見ていないそうです。文化財調査もしていないのでどうなっているか心配です。
 それにしても、延命寺は仏像がたくさん安置されています。「廃寺になった寺から集めたのでしょう」と寺博士は言っていました。
 木造愛染明王坐像は像高22.5㌢の三面六臂(ろっぴ)の像です。不動明王坐像は像高22㌢で「奉寄進不動明王長久山延命寺…」の銘があります。不動明王立像は47㌢と54㌢の2体があります。本尊以外の虚空蔵菩薩像があり、像高76.5㌢で金秀院の本尊といわれています。23.5㌢の木造大日如来坐像は「羽黒山仏師本坊」の銘があります。木造大聖歓喜天像は像高10.5㌢、象頭双体で厨子に納められています。そのほか、釈迦如来立像、薬師如来立像、多聞天、賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)像なども保存されています。
 「本当に貴重な寺ですが、保存を大切にしたいですね。徳一さんに頑張ってもらいましょう」と寺博士に言われました。私も1200年前に戻れればと思います。
 
【メモ】
長久山延命寺
〒969-7407
福島県大沼郡三島町大字石田字上居平870
▼宗派 真言宗豊山派
▼本尊 虚空蔵菩薩像(秘仏)
   
三島町を訪ねる

 福島県大沼郡三島町に来ました。まず、三島町交流センター山びこの学芸員に私の足跡を尋ねました。町が山林に覆われ、只見川沿いに交通が開け、現在は宮下ダムがあり、水力発電所もあります。人口も多い時には、7千人あり、徐々に減少、1970年4千108人、今年の7月1日には1千732人です。
 『特集三島物語』に私のことが書かれています。寺博士がそれをまとめました。
「奈良の都から訪れた高僧徳一は大同2年(807)現在の磐梯町に慧日寺を建立しました。その後も会津各地に寺院を建立し、民衆に仏教を広めました。最盛期の慧日寺には3千800の子院があったといいます」
 このことから会津は仏都と言われています。「その創設者が徳一さんですから、徳一さんはどこへ行っても崇拝されています。私も徳一さんと一緒で光栄です」と寺博士は参考資料を見ていました。
 『三島町史』によると、御坂山大高寺(だいこうじ)を承和13年(846)に大沼郡大石田村に創建、三坂山鵲大明神を高寺の守護として三十六の坊舍を持っていました。大高寺の本尊は虚空蔵菩薩、不動・毘沙門を脇侍にしていたといいます。この大高寺がどこにあったか未詳です。月山坊・金剛坊・名寺坊・三光坊・延命坊・安穏坊など36の名が『大石田の民俗』に書かれています。
 この延命坊は、現在、真言宗延命寺となって現存するので、項を改めて紹介します。
 あと1か寺、安穏坊の後身が、麻生村に移って安穏寺となっていましたが廃寺になり、現存しません。
 これらの寺は私か弘法さんの開基となっています。弘法さんは実際には東国へは来ていないので弟子の開基と思われます。
 私が訪れた所は霊地・霊場で、岩や石に山の神が宿っていました。この霊地を歩いて、土地の神様に挨拶して修行に入りました。


急勾配の石段を上がつ本堂

 
右の石仏は雪囲いした屋根がある

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