![]() |
![]() 寺の本堂(菊花堂)を只見川に架かる観月橋から見る ![]() 本堂 |
日本三大虚空蔵尊の一つ 春に茨城県東海村の村松虚空蔵尊に行きました。十三歳の子供たちが、たくさん参拝していました。寺博士は「伊勢の朝熊岳(あさまだけ、三重県)、奥州の柳津(やないづ、福島県)と合わせて日本三大虚空蔵尊というのです」と話しました。 そこで、福島の霊巖山圓蔵寺へ行きました。通称は柳津の福満虚空蔵堂といい、別当寺だったと言います。虚空蔵菩薩は弘法大師が唐から帰朝した時に霊木を持参、それを三つに切って海に流しました。一片が柳津に流れついて福満虚空蔵尊となり、他の二片が前述の寺に流れ着きました。それで私は只見川の中岸の巨大な巖谷の上に寺を開いたようです。それが大同2年(807)で、法相宗でした。ほかに、慈覚大師が弘仁3年(812)に建てた説もあります。 縁起などによると、江戸時代に真言宗になり、寛永4年(1627)、臨済宗に戻っています。寺は石段を登ると仁王門があります。そして本堂です。ここから見る只見川の景色は格別でした。 この寺は何度も災難にあい慶長13年(1613)、村の大火で堂宇焼失、元和3年(1617)、虚空蔵堂(菊花堂)を完成、この時、川岸から巖山上に移っています。文政元年(1818)の柳津大火で、圓蔵寺、虚空蔵堂、建設中の三重塔が焼失、幸い本尊と祭具什物は無事でした。文政12年(1829)には菊光堂が再建されました。重層、千鳥破風(はふ)、唐破風と調和のとれた建物です。また、本堂より進むと、室町時代建立の奥の院に弁天堂があり、国の重要文化財に指定されています。 本堂の脇には、撫牛(なでうし)像があり、自分の痛い所をさわる本堂の脇には撫牛像があると痛みがとまります。数え十三歳は学力をつけるのにも一番大切な時期で、ずっと十三参りの信仰が廃れたことはありません。 今は慧日寺、勝常寺、鳥追観音(如法寺)、示現寺と並び、会津徳一大師五大寺巡りの1つにもなっています。
|
![]() 本堂の脇には撫牛像がある |
![]() 石段を登ると仁王門がある |
![]() |