徳一が歩く   長谷の旧跡(49)                                    (財)茨城県郷土文化振興財団


寺跡と思われる場所には多く石仏がある


石段を登ったところにあったのが長谷神社。石段は88段を(右は長谷神社)


     徳何もない山中の神社が寺跡
「今日は何もない所へ行ってみます」と寺博士が私を誘いました。
「伝承だけあるのですね」
「そうですよ。だいぶ山の中ですから、私が歩けるかどうか心配です」
 今回は地元の方の案内で、現在、長谷神社のある寺跡と思われる所に登りました。石段が88段、私は健脚ですが、寺博士は85段で、ふらふらになり心配しました。
 長谷神社の創建年など不詳と『茨城県神社誌』にあります。ここに長谷寺か密蔵院があったようです。
 寛文3年(1663)の「開基帳」の真言宗の部に「久慈郡長谷村真言宗上入野村(現・城里町)小松寺末寺太平山普門院長谷寺」がありました。日本三長谷寺の一つです。「高貫山之内堂平観音開基は田村丸御下着節大同四年己丑から当卯(寛文三年)まで八百五拾六年、本尊は行基菩薩の作で入仏供養」とあります。809年から1663年までの記述です。
 その後、堂宇焼失。高倉天皇の嘉応元年(1169)己丑に再建、佐竹13代の義仁(義人、1400~67)は私の刻んだ観音像を本尊にしたということも書かれています。
 寺は江戸の終わりには廃寺になったようです。長谷寺の別当をしたのが密蔵院という山伏寺で、私の開山という説もあります。このことから、2つの寺があったことになります。
 とにかく、1200年前のことです。寺博士の頭の中も混乱していますが、神社の裏側にこの密蔵院の大先達であった小野崎家の墓地があります。
 山伏寺には当山派と本山派があり、水戸藩では、小野崎家の密蔵院は本山派で、栗崎(水戸市)の二階堂の明応院が当山派の大先達でした。
 昔のことを知るのは難しいことです。実際に現地を歩き、池や石垣を見つけると、昔、ここにいたのかなとも思います。

【メモ】
大平山普門院長谷寺(廃寺)
〒313-0027 
茨城県常陸太田市長谷町345(長谷神社)
(▼宗派 真言宗)
(▼本尊 十一面観音像)
(別当/密蔵院/廃寺・本山派山伏寺)
  

  大千達の墓石

 

 密蔵院の大千達であった小野崎家の墓地
 
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