徳一が歩く   長興寺(43)                                    (財)茨城県郷土文化振興財団

長興寺本堂(現在の堂宇は仮堂)


扁額も新しい

      痴鈍空性大和尚!の中興開山
 私がなぜ常陸や磐梯・岩城を歩いたのか、私自身分かりません。高萩精玄さんが『いわきの仏教史』の中で私を次のように書いています。「藤原仲麻呂の子といわれ、南都興福寺の修円僧都(しゅえんそうづ)について法相宗を学んだが、のちに伝教大師と宗論を戦わし、朝議によって東国に謫たくせられ…」とあります。
 とにかく、すべて私が寺を創建し、その後、何百年かたって、寺が別の宗派によって再建されています。法相宗では、私以外、弟子の名前はほとんどありません。
 いわき市好間町の臨済宗長興寺を寺博士と訪れました。「1200年も前のことで誰も分からないので、夢があり、徳一さんをみんなどんな人か想像していますよ」と言います。
 大同元年(806)に私が創建、詳細はここでも不明です。建治元年(1275)痴鈍空性大和尚が中興開山と言いますが、驚いた僧の法名です。縁起によると、痴鈍空性大和尚は高月飯野家の人(鎌足子孫)で、鎌倉建長寺開山大覚禅師の法嗣となり、唐で学び帰朝後、岩城へ帰って長興・普門・霊山・禅福の4か寺を開山したと言います。正安3年(1301)、小名浜野田の禅福寺で亡くなったそうです。
 その後、芳厳和尚(1701年寂)の時から、妙心寺派の布教によってそれに従い、末寺14か寺を持ちました。
 私の去った後のことは詳細に伝えられています。徳川3代家光以降、代々、御朱印10石、山林竹木諸役の免除もありました。
 しかし、明治初年の失火によって、七堂・什宝(じゅうほう)・記録等すべてを焼失、山門と山号額が昔を偲ばせています。
 現在の堂宇は仮堂で、明治17年(1884)今神田の観音寺を移転したものです。本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏、別に大覚禅師が中国から持参した達磨大師像があります。とにかく、火災によってすべてを失ったのは惜しいことです。

  【メモ】龍峰山長興寺
〒970-1151
福島県いわき市好間町下好間字大舘302
電話0246-22-3061
▼宗派 臨済宗妙心寺派
▼本尊 釈迦牟尼仏
▼年中行事 開山忌(6月26日)
▼いわき七福神 寿老人
 
本堂には急な石段を登る
 
明治の山明治の火災で多くを消失、山門だけが往時を偲ばす
 
TOP BACK   NEXT