観音像を安置して寺を開く
「今日は徳一さん自身にお会いできます」と寺博士が話してくれましたので、心がドキドキしました。「どんな姿をしているか」。宇治山長谷寺といって、私が大同2年(807)に観音像を安置して寺を開いたそうです。
住職さんに、本堂へ案内していただきました。像高270㌢の立派な十一面観音立像です。鎌倉時代の文保2年(1318)の作ですから私が去ってからの本尊です。
この本尊は、いわきの豪族岩崎氏が先祖供養のために大仏師能慶に依頼しました。能慶はカヤ材を使い、寄木造りの像を制作したそうです。さすが慶派の作です。
脇侍の左は、雨宝童子です。この姿は天照大神が降臨した時の姿で右手に錫杖、左手に如意宝珠を持っています。
右の脇侍は難陀龍王です。難陀は古代インドの言葉で「歓喜」の意味があり、元は悪獣でしたが、仏様の教えによって、仏法を守る守護神になったそうです。手には龍の子の彫られた法器を持っています。この両脇侍は観音様を守りながら、村人に幸福をもたらしてくれるそうです。
私ははじめてお目にかかった像です。寺博士も熱心に見ていました。そして、何かしら祈願していました。ここで、住職さんはお忙しいとかで退室され、私は自由に自分と会うことになりました。
「徳一さまより最澄さまは15歳上、空海さまは徳一さまより7歳上」と説明文があります。しかし、私は分かりません。とにかく、私が「三一権実論争」「真言宗未決文」で2人と論争したと言われています。像は坐像でよく出来ています。
ここで大事な話があります。この十一面観音は県文化財です。この胎内に「奥州東海道岩崎村長谷村観音堂徳一大師建立所也」とあるそうです。このことは、すべて寺博士が論じますので、後のお楽しみです。
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