七堂伽藍の奈良風の寺院があった
七堂伽藍 奈良風の寺院があった
▽恵日寺・慧日寺跡(福島県磐梯町)
慧日寺・恵日寺は私が大同2年(807)に開いたといいます。ここには七堂伽藍の整った奈良風の寺院があったそうです。大がかりな学術調査の結果、昭和45年(1970)、国の史跡に指定、平成20年(2008)に金堂、つづいて中門が復元されています。
私が死んだのは承和9年(842)で、今与(金耀)が跡を継ぎ、寺僧が300、子院が3800、僧兵が数千人と書かれていると寺博士が驚いていました。
平安時代末期から戦争に明け暮れ、寺に武士が入ったのは、困ったことでした。木曽義仲の闘いに慧日寺衆徒頭の乗丹坊が参戦し戦死、慧日寺は衰退したそうです。中世になって、領主の庇護で伽藍が再興しました。この事は『絹本著色恵日寺絵図』に見られます。
その後、伊達正宗が会津に侵入、金堂を残し、焼失、金堂も寛永3年(1626)に焼失、偉大なる寺も台無しになりました。
慧日寺遺跡入口には、平将門三女如蔵尼供養塔があり、右側に入ると、乗丹坊を供養した宝篋印塔が見えました。その奥に仁王門があり、寺博士は草鞋の写真を撮りました。
この奥に私の考案した会津薬師の一つ、東宝薬師があります。廃仏毀釈で一時、磐梯神社になり、明治5年(1872)焼失。明治32年(1889)に再建されたそうです。
『今昔物語集』巻17の第29に「今ハ昔陸奥国ニ恵日寺トイフ寺アリ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一ト云フ人ノ建テタル寺也」とあります。私が入唐したかどうか分かりません。それにしても私は著名人です。
私の眠る廟へ来ました。私の墓は、最初三重塔だったそうですが、発掘調査の結果、五重塔になりました。石塔は戦後の大雪で倒壊、二重目の塔身に納められた土師器の甕が出ました。私の骨を納めたのでしょう。塔の高さは2・95㍍です。
昭和54年から昭和57年(1979~82)にかけて修理が行われ、石塔の下から江戸時代に納められた経石31個が出土しました。真言宗のしきたりで先祖供養をしたのです。それに石塔を削って飲む習俗もあるそうです。現在、磐梯町の文化財になり、覆屋の中に保存されています。
中門をくぐって金堂に上がりました。発掘により復元されました。桁行15・9㍍、梁間(奥行)9㍍で、建立時には、丈六(2・4㍍)の薬師如来像と脇侍の日光・月光両菩薩や四天王が安置されていました。これは私が安置したのでしょうか。その後、御本尊は何度も失われ、江戸時代に再興された薬師三尊像も明治5年(1872)、金堂とともに焼失したそうです。
屋根の形式は不明でしたが、奈良にならって寄棟造にし、屋根材は「とち葺」にし、床は土間叩きの跡がないので、床板を張りました。組物も雪国なので、軒を大きく出さず、平三斗のように組んだそうです。
須弥壇は幅が7・5㍍、奥行2・5㍍、黒漆塗仕上げ。杉・ヒノキなどよい材料を使用。道具もヤリカンナを使って古代の趣があります。採光を考えた連子窓の緑色が朱色と調和しています。
「慧日寺は平安時代の初め、南都出身の僧徳一によって霊峰磐梯山を望む山麓に開創されました。東国の拠点寺院としてさまざま仏教文化を招来し、会津地方の文化の発展にも大きく寄与しました」。これは、私に対しての讃美です。本当に良い日で、寺博士も満足していました。
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