筑波が先か岩城が先か―
「常陸ばかり歩いていないで、岩城でも待っていますよ」と寺博士のもとに連絡があったそうです。私は健脚ですから「いつでも」と言ったら、博士も「負けてません」と言うので出掛けました。
私は筑波が先か岩城が先か、1200年も前のことで、どちらでもよいと思っています。それにしても、湯川町の瑠璃光山勝常寺には驚きました。人口3217人、寺を維持するのも大変でしょう。
私の時代に造られた薬師三尊像が国宝(美術品・彫刻)なのです。重要文化財はほかにもありますが、国宝はありません。
本尊の木造薬師如来坐像は本堂に、脇侍の日光菩薩立像・月光菩薩立像は収蔵庫に収められ、拝観は坊守の案内で観られたので博士とともに満足しました。
薬師如来立像の像高は141・3センチ、材質はケヤキのようです。技法は一木割剥造り、両脚部と頭・体の大部分を1本から刻み、いったん前後に割って離し、中をくりぬいてから剥ぎ合わせています。頭髪は別の材料です。顔は厳しいです。光背も最初のものです。
今まで、私の時代の仏像を見たことがないので、驚きました。「徳一さんもノミを入れましたよね」と寺博士にいわれましたので「そうかな」と思います。
この収蔵庫には、重要文化財の四天王である持国天、増長天、広目天(東京国立博物館寄託)、多聞天の各像が安置されています。須弥壇の四方を守護する像でケヤキの1本造で平安初期の作です。
ほかに、木造十一面観音菩薩立像・木造聖観音菩薩立像(延命地蔵)・木造地蔵菩薩鋳造(雨降り地蔵)・木造天部立蔵(伝・虚空蔵菩薩像)が安置されていました。
すばらしい仏像を見て、感動しましたが、私がこの寺を建てたという資料は何もないということなので残念です。
仁王門の前には清水が流れ涼しさを感じました。仁王門には草鞋が奉納されて、私と寺博士の安全を祈っているようでした。仁王門を入ると右側に収蔵庫・経堂、左側に鐘楼、そして正面が薬師堂です。
現在の薬師堂は室町時代初期に再建された桁行5間、梁間5間、寄棟造で屋根は銅版葺きですが、かつては茅葺だったそうです。
私が創建した1200年前には七堂伽藍と附属建物が並んでいたそうです。本尊の薬師如来坐像は前にお話ししましたが、檀家の方にお祈りしていただくため、国宝ですが、薬師堂に安置されています。
この薬師様を守る十二神将が安置されています。室町時代の作といわれ、湯川村指定文化財です。木造で彩色、材質は不明です。像高は88・2センチから97・4センチです。
そのほか、村の文化財指定の木造不動明王立像・木造千手観音坐像や絹本著色両界曼荼羅・絹本著色真言八祖像掛軸をみることができました。私が去った後、空海さんのお弟子が真言宗に改宗したので、その様子が仏像などから伺えます。
ここで、一番感動したのは、私の像に出会ったことです。私の作と伝承されているようですが、専門家は10世紀の作と言っています。ケヤキの一本彫で坐像86・9センチ。左鼻翼、右鼻唇、右手第四指など欠けています。今の私の顔はしっかりしていますよ。
境内には、土井晩翠の詩碑があります。太平洋戦争中、アメリカの爆撃から、勝常寺を守ったウォーナ―博士の記念碑です。
「一千余年閲(けみ)したる 仏像の数十三を 伝え來し勝常寺 尊き国の宝なり 秋のけしきの深みゆく 会津郊外勝常寺 仏縁ありて詣できて 十三像拝みぬ」
平安の昔、ここに私が居たなんて夢のような気がします。この先、「福島をゆっくり歩く機会を作ってと」寺博士に頼みました。
|