神仏が一体となり筑波山を守る
筑波神社の田中泰一宮司さんとお会いし、拝殿の後ろにある私の墓という、塚に登りました。
かなりの距離がありそうなので、寺博士は難しい顔をしていました。宮司さんは草履履きで、すいすい登って行きました。
万葉の会が建てた歌碑がたくさん見られました。中禅寺の仏堂や修験の堂宇があった所らしく、岩肌に梵字の彫ってあるのがみられました。寺博士は不動と観音の梵字といいました。
私は、千手観音堂を中心に八角円堂(十一面観音堂)・三重塔を建てたような気もします。江戸時代には徳川幕府の祈願所で、徳川家光は春日神社などを建立したそうです。ところが、明治の廃仏稀釈で仏教関係は破却されました。
私の墓は石塔などないので分かりませんがその下はなだらかな広場になっているので、堂宇があったと思われます。礎石らしいのがあるので、私の供養塔があったのでしょう。とにかく感動しました。帰りに社務所で、三十六歌仙絵を見せていだき、柿本人丸・紀貫之・小野小町にお会いしました。
筑波神社の隣にある大御堂にも行ってみました。坂東33観音の第25番目札所で、多くの巡礼者に会いました。現在は真言宗豊山派に属しています。かつて弘法大師から書簡をいただき、協力を依頼されたこともありました。私は『真言宗未決文』を送って批判しました。「促身成仏疑」のことです。
私の時代は、神仏が一体となって、筑波の山を守り、多くの人が参拝に訪れました。
仏像もたくさんありました。かつての中禅寺の寺宝は、東京の護国寺や坂東市生子の真言宗万蔵院に移されたものもあるそうです。 昭和5年に再建、昭和13年山津波、昭和36年再建したそうで、「かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき」の御詠歌を歌い筑波山を仰ぎました。
【メモ】
大御堂
真言宗豊山派 東京護国寺別院
本尊 観音菩薩像
坂東三十三観音二十五番
〒300‐4352 つくば市筑波748
電話029‐866-0126
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