この地で法相教学を広める
私は徳一と申します。1230年ぶりに常陸や奥州を歩いています。今日は茨城県笠間市上市原の天台宗如意輪寺に、草鞋を脱ぎました。私については、伝説めいたことが多いようです。
私は法相宗の僧で、奈良・興福寺で修円に学んだといいますが異論もあります。天台宗の最澄とは大分論争しましたが、このことはいずれ、お話します。日本の社寺の創建の多くが大同年間で私もその時代に70か寺以上の寺を創建したとされています。
この如意輪寺は、船戸住職のお話によると、宝亀8年(777)に私が開基、そこにしばらく滞在したそうです。ここには、如意寺という郡寺があり、私はそこに明星院を建てたそうです。
本堂の裏にお堂があり、市原観音として信仰を受けています。私が寺を開基したほか、仏像を彫ったようになっています。
私の去ったあと、最澄の高弟円仁(慈覚大師)が、法相宗の各寺を訪れ、天台宗に改めています。弘仁6年(818)に、ここも天台宗に宗派を替えました。その時に堂塔を建て、如意輪観音を安置し、胎内に本尊を納めたといいます。その胎内仏が私の作なら古いですね。その頃、私は会津にいたようです。
仁壽2年(852)には、世を去っていましたが、七堂伽藍が整い、天徳年間(957~61)の銘のある瓦も発掘されたそうです。
文化財の鰐口は嘉暦3年(1328)の銘があり、阿弥陀如来は13世紀後半の作です。天正年間(1573~92)には佐竹氏に全山を焼かれ諸仏は残り、本坊明星院跡に三嶋山明星院如意輪寺として再建されたそうです。
私は、ここで法相教学を広めました。20代で都を離れたので、私の活躍の場は、常陸と会津が中心です。今回はその跡をたどたどしく歩いています。
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